石川五右衛門のほうがいいかな いや ねずみ小僧かも

いつの間にか8月が終わっていた。

 

 

去年の春に肺炎の流行が始まり、それから今までより一層死ぬこととか生きる意味とかってなんなんだと(まじめにではなく)ぼんやりと考える時間が多くなった。

 

いつ病気にかかって死んでしまうかわからないのに、なんで毎日しんどいと思うようなことばっかりやって生きてるねん。しかも薄給。いったいこれのせいで今までどれだけ楽しいことや時間やお金を逃してるんだろうか。寿命がもったいないと思いはじめるととたんにその時していた仕事が嫌になった。

それで10年くらい続けてた飲食店での仕事をやめて土日休みの事務職に就いてみた。

気になってたけど行ったことないラーメン屋さんへ順番に行くようにしてみたり、一度は行ってみたかったフジロックのチケットを取ってみたりもした。

 

とくにフジロックは、自分が「いつ死ぬかわからんし…」モードになってるし、瀧の復帰だし、幸宏さんをもっと目に焼きつけておきたいし、っていう思いもさることながら飲食店で働いていたら絶対に休めない夏の土日、人生で初めてなんの気兼ねもなく休むことができるチャンスがきたんだから行かないわけにはいかない。

とはいっても今年のフジロック開催について公式にアナウンスがあった3月頃から5月に入るまで、フジロックがあることを知っておきながら「いいな~どうせ行かれへんしな~人生で一回はいってみたいな~電気みたいな~」とずっと思いながら羨んでたんだから10年間の習慣って伊達じゃない。いや、5月まで自分がもうその環境から脱していることに気付かなかった自分がまぬけなのか。

 

 

それから8月までの3か月間、毎日フジロックやキャンプのことについて調べまくった。会社は例年に比べるととてもひまで、午前中に1日の仕事をほぼすべて終えて午後からはずっとググってググってググっていた。

amazonでアウトドアチェアや虫よけスプレーを検索した跡を会社の人に見られることもあった。

フジロックに使える予算を決めて定期預金を解約して、吟味しながらツールを集めていった。なんせ普段インドア派なんでキャンプギアなんかまったく持ってなくて、結局10万円弱かかった。でも全然つらくはなくて、感染症や天候や虫や一人でテントを張る事などに不安はあったけど楽しみな気持ちの方が圧倒的に大きかった。

7月には近くの公園で試しにテントを張ってみた。シュラフも持って行って寝転んでみたらまだちょっと痛くて、さらになんか敷かなあかんのかい…まだ荷物増えるんかい…と多少うんざりしたりもした。

お酒を販売しないことが発表されても、全然気にならなかった。むしろ万全の体調でいろんな音楽や自然を楽しめると思えた。

ご飯の出店もずっと楽しみにしてて、発表されたときはいつどこで何を食べようかと気になるお店は全部メモした。

 

ただ、ずっと100%のワクワクで当日までたどり着けたらよかったけど、そうもいかなかった。

7月にコーネリアスの過去のインタビュー記事が話題になり、SNSやインターネットではこの件についての投稿がすごくたくさんあった。(ここでは記事の詳細については言及しない)フジロックでの彼らのステージにも影響があるんだろうなとなんとなく思った。自分自身も、いざその場でステージをみたときどんな気持ちになるんだろうかと考えた。

そんなことが頭の中をぐるぐるめぐっているうちに、そのあとのコーネリアス・メタファイブの活動についての発表があった。なんでやねんとも言えないし、でもかといって当然だと思うこともない。ただいままでちゃんとコーネリアスの曲を聴いたことがなかったから、フジロックで聴いたらどう感じるんだろうと楽しみにしていたし、高橋幸宏の姿をできるだけたくさん見たくて、しかも自分があこがれていたフジロックのステージに立っている姿…!とワクワクしていたから、誰にぶつけられるわけでもないやるせない気持ちがじょじょに頭のなかを占領していった。

 

さらに、夏に入って緊急事態宣言が発出されたにもかかわらず増える感染者。ツイッターフジロックについて検索したら見つかる「隠れて飲酒する」宣言。そりゃそうか、だって折りたたみチェア折りたたまず持ち歩く人が多すぎて持ち込み禁止されるくらいなんだからなぁ。

自分がどれだけ健康でいて気を付けていても周りの人がどれだけ気を付けているかわからないし、自分が保菌していて媒介してしまうかもしれないし、自分はどうなってもいい!と腹括ってたとしても周りの人に迷惑をかけるのは嫌だ。行くと決めたときは、夏には状況が少しでも良くなってたらいいなぁ、自分自身がしっかり気を付けていよう、と意気込んでいたけど、悪化する状況や行く人・行かない人それぞれの言葉がやるせない気持ちに追い打ちをかけてくる。

 

最後の一撃は、悪しくもまったく別のフェスにまつわる出来事だった。

学生の頃の同級生に、9月に近くであるフェスに誘われた。この時はまだフジロックへの希望とやるせない気持ちが半々くらいの状態で、もしフジロックが中止になったり行けなかったりしたら、何も楽しいことがないじゃないか…とせめての気持ちで一緒に行くことにした。ただチケットが完売していたので、SNSで譲ってくれる人を探した。

それが間違いだった。完売していたならあきらめたらよかった。

結局チケットを譲ると言ってくれたアカウントは詐欺で、お金を振り込んでから連絡がなかった。もちろん警察に相談をしたけど、立証が難しいのでこの段階では立件できないとのこと。

こんなくだらないことに引っかかる自分も自分だけど、第一こんなことをする人に自分が出くわすぐらい、こんなことをする人がいるんだなぁと思った。

そうすると、今まで自分をげんなりさせてきたあの件この件、自分が楽しみにしている音楽の周りにはこんなことする人、こんなこと考える人ばっかりなんかよ…と全部が一緒くたになって襲ってきて、一気にテンションが下がってしまった。

 

1週間くらい前に、今年はやめておこう、と決めた。

あんなに楽しみにして、道具も色々買って準備してきたから決めてから当日までにうーんうんと悩む気持ちもあった。特に当日にyoutubeでアクトを見ているときには「なぜ自分はここにいないのか」ともどかしく感じる瞬間ばかりに出会ったし。

 

本当ならお盆の期間はタイムテーブルとメモした出店を見比べながらどうやって3日間を過ごすか決めたり、荷造りをしたり、聞いたことないアーティストの曲を聞いてみたり、やることがたくさんのはずだった。

特に会社は有休を取る人がほとんどで一人しかいないことも多かったし、関係する会社も休業しているところが多くてやりたい放題だったのになぁ。

とか考えながら会社でぼーっとしていたお盆期間、あまりにも暇で、高校生の時に電車・バス待ちの時間をともに過ごしてくれたソリティアの存在を思い出してしまった。

そして検索してしまった。

 

それから1か月経つが、携帯電話にソリティアのアプリをインストールして(しかもクロンダイクとスパイダーと二種類分)いまだに毎日手が空いた時間に遊んでいる…

どころか、やめられなくて他のことをすべき時間もソリティアをしてしまっている。

この1か月、ソリティアがいなければできたことがたくさんあるだろうな~と思うと憎いが、フジロックやそのへんやのことですさんでいた気持ちをごまかしてくれてありがとうという気持ちもある。

 

ソリティアってジャンバルジャンだったんだねえ

チョロQ引っ張った分だけ速く走るのおもろくて後ろに引きすぎて壊したことある

ひまなのでこのあいだ観に行ったライブの話をする。

 

NGKで定期的にやっている「2×2」というライブに行った。
東西から2組ずつ集まって4組でネタとコーナーをするライブだった。その日は黒帯とコウテイ・オズワルドと蛙亭の4組で、ちょうど先週にABCお笑いグランプリがあってオズワルドと蛙亭のネタをテレビでみていたこともありすごく嬉しい組み合わせだった。
とはいえ中でも一番嬉しかったのが黒帯で、普段から黒帯の主催するライブやyoutubeをよくみていて、ここ1年くらいはずっと黒帯漬けだった自分には、2人が比較的近しい空気を感じるほかの3組とNGKで相まみえる機会が貴重だと感じた。

 

 

黒帯を初めて知ったのは4,5年ほど前だったと思う。M-1の予選動画で金属バットの漫才に衝撃を受け、youtubeで金属バットのラジオを聴くようになった。その流れでインディーズのライブにも行くようになったとき、そこに出ていたのが黒帯だった。
初めてみた時は、てらうちさんの脱力したツッコミとふたりの悪ぶる態度から金属バットフォロワー、というふうに見えてそれ以外の気持ちを持てなかった。ただ、金属バットの出るライブに行くと黒帯も出ている、ということが多々あったので自然と黒帯をみる機会も増えていった。
ネタや話しているところを聞いていると、黒帯の魅力がなんなのかわかってきた。

 

ボケもツッコミも等身大で突飛ではなくて、それでいてふたりらしい視点や言葉なところだ。(これはあくまでも自分が感じる黒帯の好きなところ。)
システムに沿った構成で、多くはないボケなのにそのひとつひとつのくだらないこと。「学生の頃に教室の隅でふざけて話してたことに似てるな…」と思わせる懐かしさがとても好きだ。
「うんこ味のカレーとカレー味のうんこ、どっちも食べんでええ」とか「しんどいときは女に優しくせんでええ」とか…大きな声では言えないけど、ちょっと心が荒んでいて気だるいときに思っちゃう「もうええねんそんなん」みたいな気持ちを思い出すし、
「きれいなほうき取り合いになる」とか「年越しにコンビニでバイトしてると公共料金の払い込み用紙に押す判子の日付の年の数字変えるのが楽しみ(大西さんがyoutubeで話してた)」とか、
普段そんな細かいところばっかり気にして・気になってるんだなぁみたいな、友達付き合いなどで忙しくしてなさそうな性格が見えてより親近感がわく。

 

そこに黒帯らしさを感じるのは、笑いをとるために少し誇張したりみんなが考えつかないようなことを言おうとする人が多い中で、自分たちが見たり感じたりしたことがその発言のベースになってるんだろうなと感じられるから。

 

最近ではらしくなく頑張ることをやめてみたり、芸人とはこうあるべきみたいな先入観を取っ払っていろんなことをしたり言ったりしようとしていて、いままで見てきた芸人にはない価値観が芽生えているところもすごく興味深い。
だからこそうまくいかなかったり大変なことも他の人以上に多いだろうし、周りの人やお客さんから歓迎されない場面もあるかもしれない。
以前の凝ったネタもおもしろいしすごいな、って思うけどいまの黒帯のやり方でどこまで仕事ができるのかとても楽しみだ。

 

 

と、遡った勢いで考えてしまった。 でも、どちらかというとお笑いの世界の端っこにいたそんな黒帯が一押しの若手芸人としてNGKの舞台に立っているのがうれしくて、このライブが一層貴重に思えたということで。

オープニングから、ここに呼ぶなら自分たちじゃなくてカベポスターだとかぼやきながらあきらめムードで出てきたけど、東京に行って調子に乗っている中野さんがてらうちさんの一言で一蹴されたり、大西さんの欲が出たしょうもないニュアンスのトークテーマとか、ちゃんと黒帯らしくて笑いも起きてて良かった。
でも全体的になんとなく全盛期を終えたおじいちゃんのようなまなざしになっていて、ネタの出番もトップバッターで切なかった。
後半のコーナーでも、あるミニゲームでみんなが達成できない中大西さんがひとりで全部クリアしようとしていたけれどやっぱりイジられるのは中野さんだったり、大喜利でおもしろくてしっくりくる回答をしたてらうちさんの次にはインパクトの大きすぎる畠中さんが控えていて、実際に畠中さんのターンで大盛り上がりしたり…。
全体でみるととてもおもしろくて盛り上がりのあったライブだったけれど、自分の中では黒帯の二人がどんな思いでその場所にいるのかを考えてみたくなる時間になった。

 

その後、毎週アップしている黒帯会議でこのライブの話をしていて、聞きながらその時の姿を思い出してしみじみしたりした。

サトラレ作った人謝ってほしい 自分がそうやったらどうしようってふとした時に思ってまうから

世界5分前仮設というのを思い出すたびにドキドキする。
さっき食べたごはんの味とか、あれおもしろかったな~みたいな思い出し笑いとかなんでもない思考とかは、上ってきた階段を振り返って見えたものではなくついさっき突如背後に現れた壁に描かれたものなのかもしれない
と思うとじゃあ一体どこからが現実世界で生まれた思考や感覚・記憶なんだろうかとヒッと息が詰まる思いになる。

 

 

あと、小学生のときに「感覚は体の受けた刺激が一度脳に伝わってから自分に届いたもの」っていうのを聞いてから、自分が見てるもの感じてるものは実際にはとんでもない形や色や触り心地のものなのかもしれないと思うようになってふとした時にゾッとする。
自分の肌の色はもっと黒かったり白かったりもしくは緑だったりしたり。あるいは気持ちいいなぁと思いながら触ってるものはめちゃくちゃな突起があって撫でるたんびに血まみれになってるけど脳はその痛みを消して変換してくるとか。
血が出て濡れてても手に傷が出来ても脳が伝えてくれてなかったら何も感じないし見えない。

都会の街は新しくてきれいな高層ビルが建っていておしゃれでシュッとした人が歩いているように見えるけど、実際はゾンビみたいな緑色で血まみれでドロドロな生き物が歩き回っている曇天のスラムみたいなところかもしれない。

昔むかしこのあたりに住んでいる人間の先祖はたいへんな事故か何かで脳にストレスがかかって、自分たちの心を守って生きていくために脳がいいように変換するつくりになってしまった。
その遺伝なのか進化なのかで今でも人間の脳はこうやって感覚を変換して自分たちに届けている。のかもしれない。

 

 

こうやってふと思い出して股間がヒュッとなるようなことは自分の中にまだいろいろある気がする。いまぜんぜん思い出せないけど。

 

最後はみんな死ぬ

なにかを言ったりしたりするとき、これをすることで起きるだろう色んなことを想像してしまう。そのくせにいざ反応があったときのさらなるレシーブは全然気が利いてない。
そんなんなのでもちろん、いい加減この時代に聞かんやろと思うような「そろそろ結婚しないの~?そろそろ子供産まないとでしょ~?」をくらったときはまだそんなこと聞いてくる奴おるんかいと拍子抜けして「ウフッデヘヘヘ」としか言えなかった。これについては、そんな価値観の奴なんかまだいっぱい生きてる!と学習していい返答を探さないといけない。おばさん、宿題をありがとうな。

 

でもそんな奴おる?っていう思いが芽生える時代に生まれてよかったなと思った。時代や場所が違ったら当たり前のように結婚して子供産んで育ててそれで死んで初めて天寿を全うしたねって棺桶の前で言われてたんかな。自分自身でもそれが「そうするべき」と意識するまでもなく普通のことになってるんだろうな。その生き方自体が不幸なことだとは思わないけど、いま考えると地獄みたいな世界に感じる人もいるだろうな。
そもそも性的に好きな異性を見つけてその人と性交して股裂いて子供産むのを強要するのってめちゃくちゃちゃいますのん。「下ネタ!コンプラ違反!」って表現を規制する傍らで「結婚しないの?子供は何人欲しい?」って「きみセックスする相手おりますのん?」て聞いてるのと同じことしてないか。穿って考えすぎか。
少子化問題を盾にこんなこと聞いてきたり、同性愛は非生産的って言ったりする人はまだいるし、なんなら政治家がそう言う場面も多々見る。でも、だって子供が生まれなくて人口が減って日本か世界か地球か宇宙かが滅びても、自分死んでますもん。なんなら君も死んでますやん。子孫に美しい地球を引き継ごうとか未来に責任をっていうけどマジで自分もう死んでますねんと思っちゃう。環境とか天然資源とかに関しては共感するしそうしたいって感じるけど、自分自身の人生を大きく左右することに関しては知らんがなだ。

 

個人的には、家族になる相手がいてかつ子供をもうけたときにその人の戸籍が必要になるからじゃあ家族の戸籍作ろ!で結婚が必要になると考えてるから、子供を持たないという意思のもとでは必要ないと思ってるけど、結婚してないと家族・もっと言うとパートナーとして公的に認められないとすれば話は別って人もいると思う。っていうか、誰に認めてもらう必要があるんだ。
そこまで言うと法制度に物申すことになるからどうしようもないけど。

 

ここまで考えたら、結局自分の生きてる時間は自分の持ち物でしかないからしたくもないことを誰かのためにする必要は全くないって思えるようになった。
親だって勝手に産んだんだからこっちも勝手に生きますがな。育ててもらった恩なんか、親が好きに産んで好きに金使ったんやん!って開き直ったら成人した時点でリセット。したくない仕事を嫌いな人と一緒に嫌いな人のために無理やりせんでもええ。しんどいの嫌やったらやらんかったらええ。自分が生きてるのなんか何十年かしかないんだから、自分が有意義だと思うことだけやったらいい。
そこに行きついて最近10年近く続けていた仕事を辞めたけど、じゃあ次何したいかって考えた時にいろいろ想像して自分の能力の低さからポジティブな未来が見えなくて自分の人生なーんもおもろいことない、って落ち込んで結局辞めても辞めなくても人生充実度ゼロのまんまかーってかんじ。

 

5万円のコーヒー飲んできた とかいう表現好き

芸術家とか音楽家とかって、自分がいいと思ったその感覚を形にして売って生活してるけど、なんでそれでお金稼げると思って踏ん切れたんだろうか。

絵とか音楽とか造形はうまいとかへたとかありそうだけど、小説の良し悪しがなにかはちょっとわからない。ていうかそもそも誰かが見たり聞いたりしてうげぇって思うものも別の人からすれば共感のかたまりかもしれないし、そうすると創作物に絶対評価はありえないよなぁと思えてくる。

 

 

よく言う「緊張の緩和」と、あとあるある。お客さんを笑わせるときにこの2つのパターンを使うことが多いだろうけど、ボケに「変なの」って思うのもツッコミやあるあるに「そうそう!」って共感するのもお客さんの生い立ちとか思想次第でしょ。みてる人次第では、突飛なボケも普通の事に感じるし逆に正すツッコミに「それはちがうでしょ」って思って別に笑うようなことでもなくなってしまいそう。

あるあるもないないになるし、特定のものや人をターゲットにしてイジってみてもわざわざ何を言うほどのことがあるんだと思う人が多い環境では成り立たなくなるし。

 

多少は、というか大体のことにはマジョリティとマイノリティがあるから、すなわち自分が発信することでお金を稼いで生活するには過半数の価値観にそれを寄せればいいんだろうけど、そうしたら一人ずつがわざわざそれを発信する意味がなくなる気がする。

ただ、過半数の価値観とはどういったものかを探し当てることも簡単ではないと思う。しかも誰もが普段思っているような、言葉にして交わすようなものではなく、そこから少しわき道に入った「言われてみればその通り」っていうのを。

 

「大衆に受けなくてもいい、わかる人だけわかればいい」って気持ちでやってても、わかる人っていったいどれだけいて、そのうちのどれだけの人が自分を観に来てくれてお金を払ってくれるかは未知数。しかもお笑いって、舞台や作品・グッズの売上よりメディアのギャラが収入の種類の大部分を占める仕事(いまはyoutubeの広告収入とか増えていろいろあるかもしれないけど)だよなぁ。

そう思ったら、日本中のどこに何人いるかわからない人に向かって自分の考えを煮詰めたものを届けようとするより、たくさんのスポンサーについてもらうためにたくさんの人に見てもらえる大衆に人気のある芸人さんを呼びたいテレビとかに出るのを目標にする方が仕事になるよな。

 

 

そう思うとお笑いで自分にしかできないことをするって意志を貫くのはギャンブルみたいなもんに思えてくる。それで売れないとか自分はおもしろくないとか落ち込んでいる人をたまに見るけど、そんなん当たり前やん!貫くんやったら落ち込むなよ!って 励ましたい気持ちになる。

 

最初はちょっとだけのつもりやったのに、「耳が痛くならない」とか「着け心地」とかのワード使いだしてるの見たらしっかり共存する気やんってげんなりしてまう

乳歯が2本くっついて生えてきたことがある。

生えてきたことがあるというか、生えている歯のうちの1本が妙に大きく平べったかったので歯医者さんが調べたところ、2本分の歯ぐきから大きな1本が生えていたらしい。

2本生える予定の場所に合体した1本しか生えなかったので、結局その乳歯は1本分の場所取りしかしてくれていなかった。

乳歯のときは仲が良かった2本も、永久歯では別らしい。永久歯2本は1つの場所を取り合いながら生えてきた。横幅がないので前後に2本並んでいる。

 

そのでっぱりによく唇や舌が引っかかって噛んでしまう。口内炎がたくさんできる。

いまは、唇の裏が切れていて、かつ常にでっぱっている歯が当たっているためずっと痛い。なので患部が歯に触れないように、マスクの下では常におもしろくない奴がやる中途半端な変顔みたいにほっぺを膨らませている。

 

マスクを日常的につける世情でよかった。

 

 

口が半開きでも、鼻の穴を膨らませていても、マスクが全部隠してくれているのですごくありがたい。だんだん口周りが「普段は人に見せない部分」である感覚になってきている。

マスクはパンツと同じ意味を持つのだろうか。鼻を出してマスクを着けている人はたぶん腰パンをしていてカルバンクラインと書かれたゴムがその人のシャツの裾から見えている。

ご飯を食べたりお茶を飲んだりするのが、排泄と同じ行為に分類されるようになるのだろうか。口周りは親しい人にしか見せない部分になって、一緒に食事をすることは性交渉や接吻の手前のような行為になるのだろうか。

寝るときにまで不織布のマスクをしてたら息苦しいからマスクは着けない。素顔を見られるのは性交渉してるときか一緒に食事をしてる時か一緒に寝てる時だけ。

人間の三大欲求を満たすときにその姿を見せていいのは大切な人にだけ!みたいな価値観ができるかもしれない。

もう早速、最近マスクを着けずに人前に出るのが恥ずかしくなってきている。

 

 

マスクを着けていなくてはいけないのはすごく面倒くさいし、病気にかかって健康に生活できなくなるのは嫌なのではやくウイルスがなくなって前みたいに生活したいともちろん思う。

でもマスクを着けることがどんな意味を持って、それがどれだけ育つのか確かめてみたい気もする。

 

早く着いちゃったから、喫茶店とかで時間つぶしてるみたい。今年の梅雨の話。

雨の日は髪の毛がチリチリになる。ふつう、湿度が高く潤ったらしっとりするんじゃないのか。

頭のうえにチン毛をふりかけたみたい。

 

雨の日に鏡の前の自分の髪の毛を見るたびに、まえーに2ちゃんねるで、電車の座席に座っているおじさんがズボンの中に手を入れて、それで手を出して、隣で寝てる人の頭にぱらぱらとその手から何かを落としている動画を見たことを思い出す。

ひょっとすると自分も電車で寝ていたときにされているかもしれない。

そんなことよく思いついたな。いやがらせをしたいけど、例えば痴漢だったり盗撮をする勇気が出なくて思いついたはじめの一歩なのか。それとも、いろんなことをやりつくしてもうこれ以上気持ちいいことなんて何があるんだ、とがっくりしたときに思いついた究極の一手なんだろうか。

 

そういえば自分の乳首を愛撫しながら向かいに座る人をじっと見つめるおじさんもいた。レオタードでおまるにまたがっているおじさんも。レオタードのおじさんのツイッターアカウントをたまたま見つけたが、ユーモアがあってなるほどと思うようなツイートもあった。

人がある行動に至るまでには様々な考えや思いを経ているのだろうと感じた。とはいえチン毛ふりかけはされたらいやなので、やめるようにしてほしい。本人はすごく気持ちよさそうだけど。

 

鏡に向かうだけで毎度レオタードおじさんのことを思い出してしまうのは嫌なので梅雨が早く明けたらいいなと思った。