5万円のコーヒー飲んできた とかいう表現好き

芸術家とか音楽家とかって、自分がいいと思ったその感覚を形にして売って生活してるけど、なんでそれでお金稼げると思って踏ん切れたんだろうか。

絵とか音楽とか造形はうまいとかへたとかありそうだけど、小説の良し悪しがなにかはちょっとわからない。ていうかそもそも誰かが見たり聞いたりしてうげぇって思うものも別の人からすれば共感のかたまりかもしれないし、そうすると創作物に絶対評価はありえないよなぁと思えてくる。

 

 

よく言う「緊張の緩和」と、あとあるある。お客さんを笑わせるときにこの2つのパターンを使うことが多いだろうけど、ボケに「変なの」って思うのもツッコミやあるあるに「そうそう!」って共感するのもお客さんの生い立ちとか思想次第でしょ。みてる人次第では、突飛なボケも普通の事に感じるし逆に正すツッコミに「それはちがうでしょ」って思って別に笑うようなことでもなくなってしまいそう。

あるあるもないないになるし、特定のものや人をターゲットにしてイジってみてもわざわざ何を言うほどのことがあるんだと思う人が多い環境では成り立たなくなるし。

 

多少は、というか大体のことにはマジョリティとマイノリティがあるから、すなわち自分が発信することでお金を稼いで生活するには過半数の価値観にそれを寄せればいいんだろうけど、そうしたら一人ずつがわざわざそれを発信する意味がなくなる気がする。

ただ、過半数の価値観とはどういったものかを探し当てることも簡単ではないと思う。しかも誰もが普段思っているような、言葉にして交わすようなものではなく、そこから少しわき道に入った「言われてみればその通り」っていうのを。

 

「大衆に受けなくてもいい、わかる人だけわかればいい」って気持ちでやってても、わかる人っていったいどれだけいて、そのうちのどれだけの人が自分を観に来てくれてお金を払ってくれるかは未知数。しかもお笑いって、舞台や作品・グッズの売上よりメディアのギャラが収入の種類の大部分を占める仕事(いまはyoutubeの広告収入とか増えていろいろあるかもしれないけど)だよなぁ。

そう思ったら、日本中のどこに何人いるかわからない人に向かって自分の考えを煮詰めたものを届けようとするより、たくさんのスポンサーについてもらうためにたくさんの人に見てもらえる大衆に人気のある芸人さんを呼びたいテレビとかに出るのを目標にする方が仕事になるよな。

 

 

そう思うとお笑いで自分にしかできないことをするって意志を貫くのはギャンブルみたいなもんに思えてくる。それで売れないとか自分はおもしろくないとか落ち込んでいる人をたまに見るけど、そんなん当たり前やん!貫くんやったら落ち込むなよ!って 励ましたい気持ちになる。